昭和43年9月24日 夜の御理解
ただ今から、昭和43年9月24日夜の御理解を頂きます。ただ今御祈念にかかる前に久富さんがお届けされますのに、今日この教えの中に畠の中の作道を作りますのに長い作道をくむのに難儀なことであろうと思うんですけれども、いつもそうです。なからなければならんのに。今日はとにかく誰かが後から押してくれるように軽かったと。いつもより、軽うひかして頂いたというてお礼のお届けがございましたんですけれどもね。本当にあの信心の信心が願いがいわゆる喜びをもって根とするのであるのですから、拝むことも修業させて頂くこともやはり喜びをもってしなければならない。ただ拝むことだけが楽しいということであったり、唯御理解を頂くだけが楽しいであったり、おかげを受けると言うことがありがたいだけでなくて修業そのものがありがたい事になってこなければならない。こちらがその気になればね。神様が今申しますように神様がお参りさせてくださるんだなあと言う実感がね、湧いてくるおかげがうけられんですよ。今朝から頂く御理解もそうですね。この油断をするなと言うような事でも本当に私の20年前のお話させて頂いたんですけれども、あの時分によう神様がああいう信心をさせてくださったなあ、ああいう修業をさせてくださったなあと思うんです。ようさせてくださったんですよ。神様がそれこそこういう、いうなら普通で考えたら、あの自転車で来にくいはずの道がかえって軽かろう。誰かが後から押してくれるような実感でこの道が通れたと言うようにですね。私どもの修業の時もそれだったんですよ。長かったら、出きゃあしません。ですから、その気になってこちらが油断なく隙間をつくらず、本気でさせていただこうと言うことになってくると、確かに神様がさせてくださるんです。だから、本気になるというそこまでが難しい今久富さんのお届けをして頂いて、そのあとありがたいことですなあというて途端に私が頂くのが幸せと言う字をね。頂くんです。土と言う字を書くでしょう。そして点々をうって干と言う字を書く。ですから、それをひっくり返してもやっぱり幸と言う字になるんですよ。けれども、まともに書いた幸せと言う字はやはり短く書いて長く、それがね、力強く書いてあるところを頂く下の中心になるところ、真中になるところがね。丁度真中になるような感じで、土と言う字の下の棒をですね。力強く頂く。ですから、幸福の中心になるもの、幸福に幸せになるもの、幸せの中心になるもの。それは、私は茂雄さんが今晩体験させて頂くぞと言うことだと思うんです。そこにはね、もう神様の働きがあって、もう受けがあっておるようなもんです。ですから、このお湿りの中でもようも参らせて頂いたと言うことになってくるんです。そこんところを私は思わして頂くんです。本気にさせて頂こうと言う気になったら、本気に油断なくと言うことになったら、神様が油断なく修業させてくださる。しかもあとで考えて見るとです。神様がさせてくださっておるなあ。神様が喜んでくださるなあ。その喜びの現れがどうしてここまで来たかわからんぐらいにそれこそ神様がお祝辞くださっている実感の中にお参りがでける。雨の降る日におじゃるなというに、言うておじゃるはなお可愛いと言う。そこがね、神の働きがそこに現れてくるのです。**おられない。そこに神様のです。より余計可愛いということですね。「言うておじゃればなお可愛い」という願い、思いがそういう体験になって現れてくる。そこであとから、考えて見てです。ようも自分があのような修業が出来てきたなあとこう思う。その修業が身に付いて来て初めてそれが当たり前の事としてなされるようになるところに私は信心のありがたさがあるとこう思う。喜びを根をもってするということは信心のすべてのことなんだけれども、とりわけ修業そのことを喜びをもってさせてもらう。修業でなからなければならん。そこには、濡れておじゃればなお可愛いと言う神様の働きが受けられる。そこにどうしてあのような修業があのような心が頂けられたと言うようなおかげが受けられるのですよね。どうぞ。